ききがきすと作品例
2009年4月21日
満州で家族を失った女性の問わず語り
この聞き書きは、2007年に90歳で亡くなった女性が語ったことをまとめたものです。
満州に夫と共に渡り、そこで2人の子供を生みますが、夫は戦死、子供も亡くし、ひとりで引き揚げてきて実家に身を寄せました。その当時のことを、思いつくままに語ったものです。戦後の第二の人生についても触れています。
この実例では、個人を特定する名称、地名などは伏せました。
担当ききがきすと:松本すみ子
聞き書き時期:2007年9月
〜こんな田舎で生きていくのはいや! 夫婦で満州へ〜
結婚。夫と逃げ出し満州に渡る
旦那とは親戚同士、母親がいとこ同士だったの。そして、子供いないところに夫婦養子に行ったわけ。どっちからも寄せ集め。養子に行った先は田舎の百貨店みたいなところ。子供がいないから、すごくきれい好きなおじさん、おばさんなんだけど...。私、とても、この山の中で一生過ごしていくのはできないと思った。あの時はまだ若かった。こんなところで死ぬんなら、帰ったほうがいいと思って、逃げ出したわけ。逃げて、そのまま帰んなかった。
そしたら、旦那になる人が迎えに来て、それなら、今、満州開拓の移民募集してるから、その仕事をしたらいいんでないかというので、行くことになったわけ。で、結婚して、旦那が先に満州に行って、それから迎えに来て、一緒にいったの。
その旦那だけど、男らしくなくて、好きでなかった。色が白くて、本当にやさしいのよ。手は器用だし、何でも作る人。まず、怒った事ないんだよ。人のこと「おくさん」「おっちゃん」なんて呼んで。でも、男らしくなくて、いやだった。あの男といれば、幸せだったかもわかんないけど。なんとなく好かなかったものね。私...変わり者だなあ。
逃げたから、親戚が仲悪くなるかと思うと、そうでもない。意外と、いざこざなしですんじゃったのよ。後腐れなし。本当に百貨店みたいな店だった。その辺で1軒しかないから、ないものはないんだから。あとで、また別の夫婦養子をもらったみたい。
満州での暮らし
奉天(現・瀋陽)の近くの小さい町、なんて言ったかな。そこに4年間住んでいて、そこで子供が生まれたの。そこには日系人のために、県庁でも市役所でも何でも一通りあって、小学校もあった。何も不自由なかったよ。コタツして、ペチカあって、暖かくて、いい生活だった。雑用は満人がみなやってくれるから、日本人の天下。
私と旦那と2人で、1ヶ月くらい満州の荒野に出張したことがある。ほんとに寂しくて、どうにもなんないようなところ。埃だらけの馬車で行った。あんなところで、よく暮らしたね。うんと物騒なところ、匪賊だの馬賊だの今にも吹っ飛んでくるところ。
でも、警察署の中だからよかったのね。毎日、朝の訓練の中、悪いことした満人が10人くらい足に鎖つけられて、ざらざらと鎖引きずって歩いているのを覚えている。そこの所長の娘、日本人は私たちだけなもんだから珍しがって、うちによく遊びに来たの。中国人だから前髪下げた格好で、本当に可愛いくて、きれいなの。縄跳びだのなんだのして遊んでいったものだよ。そういう経験もしたね。
側溝がないから、汚い水は道路にみな流してた。あんなところで暮らしたんだなあ。あの頃の満州は、おっかなかったもの、まだまだ。その頃は外国だったら、どこだっていくという感じだった。奉天ホテルなんか、素晴らしいホテルだったよ。私ら、外国っていったって、満州とか新疆くらいだけど。今はもう船に乗って行きたいと思わないよ。もう外国はいやだ。ヨーロッパとかは別だけど。
とにかく日本人は威張っていたかったの。何したって日本人が先だもの。だから、優越感ばかり強くて、日本人っていうと、嫌われた。関東軍なんて威張ってばかりいて、評判よくなかった。内地から来て、大威張りして布団を5枚くらい敷いて寝てると聞いた。娼婦たちも集めて、ろくでもないやつらだという話を聞いた。でも、いいなあ、関東軍は威張っていられてと思った。
〜思いがけない夫の死、そして子供も〜
一晩で激変した生活
いい気で暮らしていたら、ソ連に一晩で攻めてこられた。夜に、どこに行くかわからないけど、出るんだぞって言われて。子供たちなんか、寝てたのを起こされて。外は酷寒、零下だよ。あれから日本人の苦難の道が始まった。着のみ着のままだから、しらみもつくさ。若い子は結核で死ぬしね。その前はのんびりしたいい生活してたから、あれは最低だった。でも、内地ではもっとひどいんだぞ、なんて聞かされて。
ソ連兵が夜中に鉄砲もって入ってくるかもしれないし、いつ殺されるかわからない。それでも、私ってばかなんだなあ、あんまり感じなかった。絶対帰れるし、生きていけるような気がしていた。子供が3人も4 人もいる人がいたけど、子供のない人が連れて行ってくれたり、酷寒の中でみんな助け合ったんだ。
そして、2畳くらいに仕切った豚小屋みたいなところに、1家族ずつ入れられた。トイレなんか、寒いからウンチが落ちていかないの。まるで、餡かけのようになってる(笑)。子供たちが嫌っていきたがらない。寒いしね。かわいそうだったよ、ほんと。
みんなしらみたかって病気になって。発疹病っていうんだね、あれ。高熱出るの。熱で、もうなんにも聞こえない。自分の言ったのも聞こえないんだから。人がばたばた死ぬんだよ。私は、よく生きて帰ってきた。だから、今、丈夫なんだと思ってるの。高熱で菌殺したんだよ、きっと。
23か24歳だった。子供が2人いたの。今、生きていれば60歳を越してるね。哀れだよ。船の中だの、そっちこっちで子供が死ぬんだから。死んだら、土掘って埋めて。最初のひとりは奉天で死んだの。女の子。目がきれいだった。団子っ鼻だったけど。
次が男。4つか3つのころに腰掛けていて、にこっと笑ったら、通りかかった人が「あらあ、男前ねえ」なんて。やっとしゃべるようになったのになあ。あの寒いところで殺しちゃったなあと思って。
夫の戦死。民間人なのになぜ...
旦那は兵隊に行って死んだの。満鉄に日本の在郷軍人がいたわけね。その最初の軍人は徴収だったわけ。その最初になったの。東豊県というところから、たったの3人。県庁の人が2人にうちの人が1人。3人だけ。「なあに、2週間くらいで軍隊経験して帰されるんだから」なんて言われて。それが、どこに行ったかわからなくなっちゃって。そしたら、鉄道警備隊にいたらしい。青森の人たちと一緒に。
そこから、死んだっていう知らせが来たから、行って見たら、死んでもう骨箱に入ってるんだわ。在郷軍人の人が2人くらいついて行ったから、その人に、何で、その前に知らせなかったんだって言ったの。本当にお骨だけがあって、どうなって、そうなったかということもわからない。もしかして、聞いたのかもしれないんだけど、わかんない。
もう涙なんてもう出るもんでないの。出ていくときは1週間かそこらで帰ってこられると思ってたのに、もう骨になっている。初めてそのとき泣いた。泣きながら、慟哭って、こういうことなんだなあと思った。
広漠とした鉄道があって、防御のために駅舎が半分地下になってるようなところにお骨があった。満州は広いからねえ。30時間、40時間乗ったって着くもんじゃない。だから、そこに泊めてもらった。今でも覚えているのは、兵隊たちがおっきな鍋でてんぷらを揚げて、それがうまかったということ。カリカリに揚
がっていて。なんでか、それを思い出す。
〜誰だって一回くらい幸せにならなくちゃ〜
引き揚げて実家へ
一番つらかったのは、逃避行。子供がふたり死んで。親から見ても可愛い顔してた。それでも、そのあたりに腰掛けさせても、笑いも何もしないのよ、もう弱ってるから。だから、余計に鼻が高く見えたんだね。一緒にいたおばちゃんたちは、男前やなあなんて、よく言ってくれたんだ。栄養さえあったら、生きられたなと思うの。生きていれば、もう60歳を超していたんだなあ。
(注:引き揚げてきたのは博多港。長男は引き揚げ後の福岡で死亡)
そのうち日本政府が列車を出してくれるというので、帰ることになった。屋根のない無蓋車だったなあ。今考えると、東京では品川で乗り換えたんだと思う。誰もいなくて、私ひとりだった。ずいぶん大勢と一緒に帰ったんだけど、全国から集まったから、みな散らばったんだね。で、私ひとりになって、どうやって田舎に帰っていいんだか分かんなかった。それでも、なんとか帰ってきたの。
姉(義姉)さんが迎えに来てた。でも、誰なんだか、わからない。兄さんがお嫁さんをもらったの知らなかったもの。国からはたった千円からもらっただけ。みんなそうだよ。あの頃だから、千円で家でも建てられたのかなあ。日本の価値わからなかった。
(注:昭和21年当時の教員の初任給は400円という説があり、それを基に算出すると、現在の50万円くらいか)
みなによく帰ってきたなと言われた。「仕方ないから、鶏でも買って、卵でも売って暮らしたらいいんでないか」なんて、馬鹿にされた。でも、実家では何にもしないで暮らさせてもらった。実家には3年くらいいたか。
そして再婚
そして、この家が待っていたわけ。実家では子供が多いから、兄弟は皆、子守りがついて育ったんだよ。私、自分の子守りが気に入っていて、いつも抱っこして寝てたの。実家に戻っていたら、その子守りだった人が、私が戻って一人でいるらしいってことになって、世話されたの。
それで、お父ちゃんと会ったんだ。歌舞伎役者のような人だと思った。眉毛太くて、背が高くて、こういう人って珍しいなあと思ったもんだから、ああ、いいなと思ったわけ(笑)。ほんとにね、松本幸四郎みたいだと思ったの。そういうと、お父ちゃん自惚れるから、黙ってたけど。ところが、子供はいるし、舅はいるし、姑は寝たっきりだし。なんでこんなところに来てしまったかと思った。でも、こういう運命だと思ったから、いたわけだ。
ほんとにね、書いたら書ききれないくらい細かいことがいっぱいあるんだけど、忘れちゃって。外地に行った人は、苦労したんだよね、みんなそれぞれ。でも、亭主と子供ふたりの骨もって帰ってくるなんて、そうないことだと思ったよ。ただ、がんばって、なんとか90年暮らしたから。
骨は、嫁ぎ先のお墓に入れたさ。山の中なんだよ、川が流れていて、その上が山で。でも、1回も行ってない。かえって断ち切ったほうがいいと思ったの。山越えていくことでないと思って。ひとりでは行けないし。旦那のお墓にも、1回も行ったことない。向こうも来ないともなんとも言わないんだね。どうなってるんだか...。夢にもみない。
今は本当に幸せだあ。病気になったというと、みな来てくれるし。孫まで来てくれて。誰だって、一度は幸せにならなくちゃね。
(注:女性は2007年12月に死亡)