ききがきすと作品例

2009年5月12日

89年生きて、いまがいちばん幸せ

〜白内障の手術を経て視力を取り戻す〜

ききがき担当:寺坂瑞恵
ききがき時期:2009年3月

新聞、テレビ…、毎日が忙しくて楽しい

写真:※65歳目も見えて元気なころ。
60歳。目も見えて元気なころ

 私は大正9年生まれの89歳。毎日の楽しみはね、新聞をすみからすみまで読むこと。配達を待ちくたびれて、新聞受けをのぞきに行くこともあるとよ。5年前に眼の手術をしてね。長いあいだ、ほとんど見えなかったのが、見えるようになって、新聞を読む楽しみができたの。新聞を読んだら、次はチラシももれなく見て、そのあとはテレビも見るから忙しいとよ(笑)。

 中年のころから"白そこひ"(=白内障)で、だんだん見えなくなって、70代のなかばには、昼・夜の区別が明るさでわかるという程度、ほとんど見えなくなった。手術を勧められたけど怖くてね、決心できんやった。ずいぶん長いこと不自由な生活をしたね。

 83歳のときに火事に遭ったらしいの。らしい、ってへんな言い方やけどね、火事のことはなーんも覚えてないの。覚えているのは、病院のベッドに寝ていて、手と頭と顔が痛くてたまらんかったこと。そのときは入院して2ヶ月くらい経っとったんだって。

 目が見えないから、火が出ているのがわからんで、煙にまかれて出口の方向に這っていって、玄関のそばに倒れていたらしい。間一髪、娘が引きずり出して、それから長いこと救急救命の集中治療室に入院していたらしいよ。強いショックを受けると、その部分だけ記憶がなくなるんだってね。神様がそうしてくださったんやろね。恐怖や痛みを覚えていないのはありがたいことなのかも知れないね。

 その後に転院したリハビリ病院のことはよーく覚えているよ。こんなところにいたら、寝たきりになってしまう、大変だと思ってね。頑張ってトイレまで歩く練習をしたの。そして、助かった命だもの。怖いけど眼の手術を受けて、早く家に帰ろうと思った。

 眼の手術って悪い方から片方ずつやるのね。人工水晶体を埋め込む手術。1週間くらい家族同伴で入院して手術したの。術後3、4日目だったかな、眼帯を外したときには感激したよぅ。付き添っている娘に、「あらぁ、あんた老けたね!」と言ったら、娘は泣きながら大笑いしていたね。無理もないよ、20年近く、はっきりと顔を見ていないんだから。

 家族が私のことを「浦島太郎子さん」とよんで笑うほど、見るものが珍しくて、面白くて、生まれ変わったと思ったよ。町がきれいになっていて驚いた。携帯電話は不思議、すごいもんやね。テレビには釘付け! 

 今では、あたし、夜更かしばあさんよ。深夜番組は面白いよ。娘のこと老けたねって言ったけど、あとで鏡を見て、自分が年とっていたのには、もっと驚いたよ。そして、もう片方の手術も数ヶ月あとに受けたの。おかげで毎日、新聞をじっくり読んで、テレビを見て、本を読んで、おだやかに暮らしている。いまが一番しあわせって思うよ。

〜自立をめざすが時代は戦争に〜

進学したかった

写真:※20歳ころ同僚達と(中央)
※20歳ころ同僚達と(中央)

うちは貧乏人の子沢山。兄3人、姉2人、妹1人の7人兄弟。父は優しくていろいろな話をしてくれた。でも病弱で、私が12歳のときになくなった。母は口やかましい人で、まるで女中奉公に来ている娘のように、朝から晩まで家事をやらされた。母とのあったかい思い出はないね。

 学校の勉強は好きだったし、よく出来たとよ。作文と絵がとくに好きだった。上の学校に行きたかったけど、母が「行く必要ない」と。担任が試験だけ受けさせてみようと手配してくれてね、うれしかった。学科は合格、身体検査で落ちた。トラホームで目が悪かったの。ちゃんと治療できなくてね、弱視だって。悔しかった。

 あきらめきれずに、もう少しあとに、通信制の大学入試をこっそり受けたの。その合格証をつい最近まで、大事に持っていたよ。いつか勉強するんだって思ってね。自分を勇気づける道具として。

 18歳のとき、もう戦争がはじまるだろうと誰もが感じていた。近所のSさんが佐賀県伊万里市のY炭鉱の権利を買い受けて経営をするから、そこで働かないかと兄を誘ってくれた。石炭は船や汽車の動力源だからね。いくらでも需要があったからね。

 私は福岡に残って、一人働きながら、何か勉強して自立したいと思ったけど、どうにも方法がなかった。独身の女一人に家を貸してくれるなんてことはありえない時代で、女は親の家に住むか、結婚して夫の家で暮らすかという時代。田舎だったしね。

 上の兄や、姉たちは、それぞれ結婚して家を出ていたから、母と兄、私、妹の4人家族で、福岡から伊万里に移住した。測量の勉強をしていた兄が測量技師として炭鉱に雇われ、炭鉱宿舎に住むことになった。

移住してまもなく戦争がはじまり、兄にも召集令状がきた。男性の炭鉱職員もつぎつぎに出征して、各家庭に代理職員の要請がきた。我が家からは当然のように、母の言いつけで私が出ることになった。それから終戦まで約6年間も、炭鉱で働くことになるとは。ちょっと順番が狂ったというか、運というかね。

1 歳下で末っ子の妹は母に可愛がられて、戦争中でも花嫁修業の「裁縫」に通わせてもらっていてね。姉の私にきた縁談話が、母の考えで妹にまわされて、嫁いでいった。親の言うことは絶対だったし、そのころは私が一家の暮らしを支えるようになっていたから仕方なかったのかね。でもね、また家を出るチャンスをなくしたと思ったね。

〜食料を求めて問屋街を歩き回る日々〜

配給所で働き、食料買い出しの役目も

炭鉱での仕事は「売店」の販売員。売店というのは配給所。店長も出征して、売店は私ともう一人の女の子の二人だけ。国からの食料なんかを配る仕事ね。米、そうめん、うどん、しょうゆ、麦、味噌など、砂糖はめったになかったね。1日に1人あたり1合の目安が、2日に1回になり、量が減りと不安定だった。

 夕方5時閉店の決まりだけど、坑内作業する人達が「出てくるまで閉めんどって、待っとって!」と言って、坑内に下りていく。石炭の粉で全身真っ黒になり、クタクタに疲れてあがってくる炭鉱夫にとって、売店で買うわずかな食料や、タバコは何よりの楽しみだからね。

6 時ちかくにバタバタと閉店したら、売店従業員のほんとうの仕事は、それから始まるのよ。配給品だけではとうてい足りない食料を買出しに行くの。当時、Y炭鉱の炭住には約500人の人が暮らしていた。20歳にもならない女の子には重い使命だよ。一目散に山を降りて、ふもとの駅から汽車に乗って伊万里に行くの。食品問屋街はすでにうす暗くて、閑散としている。初めはどうすればいいかわからず、来る日も来る日も、1軒1軒頭を下げて「少しでいいですから、分けていただけませんか」とお願いしてまわるのが精一杯。

 腹をすかせた炭住の子どもたちの顔を思い浮かべると、「もう1軒だけ行ってみよう」と頑張れたから不思議だね。毎日、毎日、頭を下げてまわるうちに顔を覚えてくれて、少しずつ声をかけてもらえるようになってね。「おまんが来たないば、やらんばこてな」と言ってくれるおじいさんがいた。息子が出征して、嫁さんと老夫婦で苦労して店を切り盛りしていてね、私に同情してくれたんだと思うよ。裏に連れて行って、雨戸を閉めた倉庫から、毎回何かしら食料を出してくれて、ほんとにありがたかった。

 そんなふうに、食料を分けてくれる店が1軒、また1軒と増えていった。毎晩、問屋街に顔をだすから覚えてくれて「女西郷」というあだ名もついた。私はぽっちゃり太めで背も高かったからね。もんぺ姿でリュック背負って、肩からななめ掛けの布袋を提げてね、問屋街を歩きまわっていたの。

 買い付けた荷物は、伊万里湾につながっている川を行き来する舟で運ぶ。夜のうちに停泊場ちかくの置き場まで運んでおくと、翌日早朝に渡海船の人夫さんが、炭鉱の下の町まで運んでくれる。

そして自分は、8時ころの最終列車でまた戻るんやけど、乗り遅れたら線路を歩いて帰ることになる。これは辛かったね。汽車に乗って帰っても、家に着くのは 10時ちかくだったから、乗り遅れると夜中。ふもとの駅から炭住まで、山道を歩くと狐に出会うこともよくあった。「あーら、何も持っとらんよ」と話しかけ
たりして、ちっとも怖くなかったよ。

〜母の看病を終えて30歳で結婚〜

今でも思い出す"肉弾三勇士"の歌

写真:※30代後半、結婚生活時代
※30代後半、結婚生活時代

少しずつなじみの商店が増えて、けっこうな食料を調達できるようになってね。ときには1合マスじゃなくて、1升マスで米をザァーと皆の袋に入れたこともあったよ。隣り合う炭鉱がうわさを聞いて、食料を分けてと言ってきたりしたけど、そんなにはない、自分の持ち場だけで精一杯。腹が立ったのは、上司や、学校の校長が、酒を余分に持ってこいとか、食料を内緒でくれとか、威張って言ってくることやった。炭鉱地域の男の人が通う歓楽街で一番の人気者の"とんぼ姐さん"という芸者さんに渡して、いいカッコしたかったらしい。

 こうして6年ちかく、朝から夜まで事務と買いだしの仕事をしていたら、いくら若いとはいっても心身ともに疲れてね、ついに寝込んでしまった。"女西郷"は痩せこけてクタクタ。気力も萎えて、2ヶ月くらい寝たきりですごした。兄は出征、妹は嫁にいき、母と二人暮らしだったが、母は家事などやったことのない人。ろくに食べさせてもらえなかったのは辛かった。食料をさがしてくるとか、工夫して調理するという才覚がなかったんやろね。

寝ているときに、聞こえてくるのが「肉弾三勇士」の歌。♪エーシタ、キタガワ、サクエタチ…♪。"肉弾"だから特攻隊のことやね。江下さん、北川さん、サクエさんの三人が、隣接するO炭鉱のある町の出身だったから、郷土の英雄の歌を、子どもたちが遊びながら歌っていたのよ。この三人のご家族はどんな気持ちだろう?と思うと、残酷な歌だと思ってね、涙がとまらなかった。

やっと職場に復帰したのは8月、朝から真夏の太陽がギラギラ輝いていた。『この仕事を続けていると、また私は倒れてしまう』と思っていた。そんなときにあの"玉音放送"を聞いた。天皇陛下の声はよく聞こえないし、言葉も難しい。でも、終戦宣言だということはわかった。聞いたその瞬間に、その場で仰向けにひっくり返って、手足をバタバタさせて「バンザ〜イ! バンザ〜イ!」と心から叫んだ。「あー、よかった」というのが正直な気持。あのときの嬉しかったこと。

終戦後も母の看病をしながら働き続けて、母の葬儀を終えたら30歳になっていた。兄の紹介で、奥さんが病死して子どもが1人いるという兄の戦友と結婚した。たった1回の見合いだけでね。思えば無謀なものやね。結婚生活も貧乏との戦いやった。結婚13年目に夫が事故で死んで、がむしゃらに生きてきた。子供を育て上げるのに精一杯で、これといった楽しみもなかった。

 だけど今、生活の心配をすることもないし、新聞や、本や、テレビを好きなだけ見て、自分の好きなように暮らしている。今はとってもしあわせよ。

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