ききがきすと作品例

2009年5月21日

元助産婦が語る戦中・戦後の青春

平成10年に、80歳で引退するまで助産師として働いていた女性から、若い頃の思い出を聞きました。時代は日本が太平洋戦争に突き進んだ昭和初期から戦 中、そして戦後の復興期まで。北関東の農村から上京し、念願の看護婦となって働いた日々。そして、帰省して農家の嫁となってからの暮らしについて語ってい ます。

ききがき担当:青木由美子
ききがき時期:2009年3月

〜戦争の辛さより、楽しい思い出が蘇える〜

男だったら兵隊にしたい

ふたりの姉ちゃんが、私のことをとても可愛がってくれてね。交替に私を連れ出して、藤岡の町に遊びに行っていた。まるで競い合ってるみたいだったね。ウチは金持ちじゃないけど、うんと貧乏ってわけでもない百姓さ。田んぼや畑のほかに蚕を、そう、養蚕をやっていた。あの頃は繭がいい値で売れたんだね。ちょっと質が落ちて売れない繭は、自分たちで糸をひいて機を織って着物にしたんだよ。農閑期には、よく姉ちゃんがふたり並んで機を織っていた。まだ小さかった私はそばでそれをずっと見ていたんだよ。そうだねえ、懐かしいね。

私は勉強がよくできたんだ。いつも優等賞だし級長だったし。親から叱られた覚えがまったくない。学校の先生も、近所の人までも「いい子だ、いい子だ」って・・・。父親は、「男だったら兵隊にしたかった」なんて言ってたね。体格もよかったし、おとなしい性格で人と言い合うことなんか一度もなかったから、皆に可愛がってもらえたんだね。

写真:※看護婦養成所で。
※看護婦養成所で。

看護婦になろうと思ったのは、仲のいい従姉が東京で看護婦をしていたから。あの辺じゃあ、女学校に行く人も少しはいたけど、たいていは高等小学校を卒業したら、製糸工場で働くか、家の手伝いをするかのどちらかだったね。私は何か別の道をって思ったのかな、そうかもしれない。

学校を3日休んで、東京まで試験を受けに行ったんだ。それで合格はしたけど、養成所に入るには年令が足りないってことで、看護婦候補生として順天堂病院に受け入れてもらったんだね。順天堂に勤めていた従姉は、そこのお医者さんの金先生と結婚するんだけど、この先生がいい人でね、私のことを気にかけて何くれと面倒みてくれたんだよ。

金先生といって、名前から分かるように在日(*編集中:在日韓国人)の人でね。故国からずいぶん沢山の人が先生を頼ってくるのを、そりゃあ、親身に世話してあげていたみたいだね。ほんとうに立派な人だったと思う。だけど田舎のほうじゃあ、金先生の国籍のことでひどいことを言うひともいて、従姉もいろいろ嫌な思いをしたらしいよ。

日赤の看護婦養成所に行くつもりだったんだけど、あそこは女学校を出てないとダメだって直前に分かってさ。それで東京女子医大にしたんだよね。正式な名前は、東京女子醫専附属看護婦産婆養成所。看護婦助手をしながら講習を受けて2年で看護婦、その後、産科の講習を受ければ産婆の資格も取れるんだ。寮で食事も出るし、給料ももらえる。もっとも白衣の洗濯代を払うと、あんまり残らないんだけど。それでも、そのお金で、寮の裏の喫茶店から出前で甘いモノを取って食べるのが楽しみだった。

養成所に入ってしばらくして、日帰りで田舎に帰ったら、小学校の同窓生が全員、家を訪ねてきてくれたんだよ。みんな東京の生活に興味があったんだろうね。そりゃ賑やかだった。学校で習った歌を合唱したりしてねえ。

〜好きな人がいたんだよ〜

映画に歌舞伎、宝塚。毎日がほんとうに楽しかった

写真:※看護婦仲間との休日。
※看護婦仲間との休日。

養成所の仲間には女学校を出た人や、医者の家の娘もけっこういた。お国のために「男は兵隊、女は看護婦」っていう時代だったし、女がなれる職業がほんとうに少なかったしね。頭がいいなあ、って感心するような人も何人かいたよ。

田舎者の私は体を動かすのはちっとも苦にならないので、よく働いたほうかな。それで、外科医局長の鬼頭先生に気に入られたらしく、養成所を卒業する、先生の引きで外科に配属されたんだ。担当は外来と手術。だから病棟の仕事はやったことがないんだよ。

鬼頭先生は女子医大だから女医さんで、優しいひとだった。仕事が終わった後、よく私たちを映画に連れて行ってくれた。市電で新宿まで出てね。映画は外国のものが多かったね。日本の映画より時間が短くて、寮の門限までに帰ってくるのにちょうどよかったんだよ。いまでも覚えているのは『未完成交響楽』っていう映画かな。

日曜には従姉の家に遊びに行くと、いろんなところへ連れていってくれるのが嬉しかった。食堂でご飯を食べたり、歌舞伎や宝塚にも行ったね。食べ物では私はカキフライが好きだった。いまでも好きさ。

戦争の足音が聞こえていたけど...

牛込町あたりには、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍経理学校があって、そこの生徒さんたちが病院の前をよく通っていった。必ず何人か揃って隊列をつくってね。私たち看護婦は、それを毎日窓から眺めるのが楽しみだった。幼年学校の人は、まだ初々しくて可愛いらしい。士官学校生は凛々しくて、経理学校の人になるともう風格がある感じだね。馬場もあったので、乗馬姿を見かけることもあったけど、そりゃあ、颯爽として格好よかった。いやいや、付き合うなんて考えもしない。ただ見ているだけでよかった。

ニ・二六事件があった昭和11年には、もう私は東京にいたし、何か大変なことがあったらしいという話は聞いていたけど、あの頃の不穏な雰囲気というのは、実はよく分からなかった。戒厳令がしかれても、自分とは関係ないと思っていた。なんだろう、病院の中にいると何か大きなものに守られている感じだったんだよ。戦争のことは、政府がちゃんとやってくれると思っていた。

それでも、だんだん食糧事情が悪くなって、帰ってきたらどうかと親が言ってきてね。それと嫁にいった上の姉ちゃんが3人の子供を残して亡くなっていたんだけど、その後妻にって話もあったんだよ。召集されて入隊中だった義兄本人が、ある日突然、病院に訪ねてきて、申し込まれたんだ。ウチの親は反対した。舅、姑が難しい人で、姉ちゃんが苦労したって聞いていたからね。それでも、とにかく田舎に帰った。

好きな人がいたんだよ

ちょうどその頃、保健婦の制度ができて、私は群馬で第一回目の試験を受けて免状をもらったんだ。あの時合格したのは全部で6人だったかな。それで鬼石村の軍需工場の診療所で働き始めた。そこでの保健婦の仕事ってのは、工場を休んだ人の家を訪ねて様子を見て、健康指導するってことだけど、ずる休みしてないか確かめるのが本当の目的だったんだと思う。

そこはニッケル工場なんで、鍛造の勉強をした大学出の人が東京から来てて、その中のひとりを、私はいいなあと思っていた。そうだね、好きだったね。野球チームの選手だったんで、一度、高崎の球場まで試合の応援に行ったこともあったっけ。その人は両親を亡くしたとかで、まだ小さい妹と弟を連れて赴任していた。そういうのは珍しいけど、特例で許されたんだろうね。

職場が一緒だから、毎日のように普通に話をしてたけど、妹、弟を抱えていたんじゃあ、結婚なんか考えられなみたいだった。だから、それ以上は進まなかった。私も年がいってたし、姉ちゃんの嫁ぎ先へ後妻に入ろう、結婚しようって決めたんだよ。

〜昔の女のほうが健康だった〜

苦労なんかしていないさ

写真:※農家に嫁いで。
※農家に嫁いで。

なんで結婚したかって? そりゃあ、父ちゃん(夫)のことは嫌いじゃなかったからさ。親の反対を押し切ったんだから。昭和20年の1月、茅ヶ崎の陸戦隊に入隊中だった父ちゃんが一日だけ帰ってきて、式を挙げたんだ。その年の8月が終戦で、復員したのは12月だったね。

別にたいへんなことは無かったよ。おじいさんは近所じゃ有名な難しい人ってことだったけど、その頃はもう丸くなっていたし...。姉ちゃんの残した子供たちも、小さい頃からよく知っていたから、一緒に暮らすのに何も問題はなかったさ。もう大きくなっていた長女は、畑の仕事をよくやってくれた。体格がよくて力があるから、重い桑の束をひとりで運んでくれて、う〜んと助かったんだよ。そうだね、家族みんな仲良くやっていたと思う。

若い衆が集まる賑やかな家だった

父ちゃんは復員後、ウチのことを放っぽらかして、いつも村のため人のために奔走してた。米の収穫を上げる「六石とり栽培」に村の青年団と取り組んだり、畑に水を引くための「灌漑組合」を起こしたり、干芋の作り方を習いに茨城まで行ったこともあったね。

写真:※農業改革の取り組み。
※農業改革の取り組み。

そういう父ちゃんを慕って、ウチにはしょっちゅう若いひとたちが集まってた。誰かが訪ねてきたら、「まあ一杯」って出すのがお茶じゃなくてお酒ってウチだったから、いつも酒は用意してた。四斗樽が一ヶ月で空いちゃったんだから、みんなよく飲んだんだよね。

父ちゃんは消防団長、公民館運営委員長、PTA会長といろんな役をやった。村議会や市議会の選挙のときには、若い人たちがウチに押しかけてきて「ぜひ立ってくれ」って担ぎ出されたんだよ。いずれ市長になるだろうって言われてたんだけどねえ。市議会議員の3期目だった51歳の時、脳溢血でね、死んじゃったんだ。毎日午前様だったし、まあ、よく飲んでたからね。

村をよくしようと頑張ってる父ちゃんを、私は応援してた。自分も役に立ちたいと思っていたさ。だから父ちゃんが出かけてばかりいるのを不満に思ったことはなかったね。

昔のお産は楽だった

嫁に行ってから産婆の看板を上げたんだ。取り上げたのは、1年に3人くらいかね。えっ、そんなもんだよ。田舎だし、病院もあるし、他の産婆さんもいるし。難しいお産なんてなかったよ。今の人たちよりみんな丈夫だし、産むちょっと前まで野良仕事してるのが当たり前だったしね。

今でも思い出すのは、高山のほうの妊婦さんのことかな。夜、旦那さんが迎えにきて、ふたりで真っ暗な山道を自転車で登っていったんだけど、あれは大変だった。無事に産んで、その夜はその家に泊めてもらって、翌朝、お姑さんが作ってくれた朝ごはんをご馳走になって帰ってきたんだ。

出産はお目出度だし、みんなに喜んで感謝される。産婆ってのはいい仕事だよ。お七夜のお祝いによばれて、その時にお礼を貰うんだ。あの頃は10円くらいだったかね。

最近の子は小さいね。それが気にかかってしょうがない。引退する前、東京の産院で働いていた頃にも感じていたんだけど、ある時期から小さい赤ん坊がほんとうに多くなった。小さく産んで大きく育てる、っていうのが最新の考え方なんだけど、それにしても小さすぎるし、大きく育たない子が増えていると思う。女の人が細く華奢になったからねえ。

今は女の人は結婚してもずっと働き続けるだろう。それはいいことなんだろうけど、まあストレスもあるだろうし・・・。昔の女のほうが母体としては健康だったね。今の人もいいお母さんになりたかったら、スタイルばかり気にしないで、もっとちゃんと食べて、気持ちをのびのびさせたほうがいいと思うよ。

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