しなやか広場

2017年5月

私のエッセイ雑記帳(その72)

思い出すままに・・・(忘れないうちに)

ライフワーク研究家 中村 義(なかむら ただし)

まずは、小学校時代の頃の思い出、いろいろ

 勉強はとても好きだったが、運動は少し苦手なほうであった。

・特に作文や絵が得意であり、何度も褒められた経験がある。作文では、クラスの全員の前で担任の先生から、「中村君、君の作文を読みなさい」と言われ、ちょっと恥ずかしい思いをしながら、発表させられたことがある。また、絵画では、すぐ近くの和歌山城内で描いた絵が、確か「最優秀賞」に選ばれたことが、最もうれしい記憶であり、副賞にもらったペンテル絵具(クレヨンかも?)のことをはっきりと覚えている。

・6年生、最後の運動会の徒競走で、初めて念願の一等賞になったのが、忘れられない。
 また、6年生で担任の先生(S先生)から生徒会長に推薦された時には、本当に困った。仕方なく引き受けて、まあ何とか事なきを得たのであるが、あまり嬉しいことではなかった。

・その先生の家にみんなで遊びに行ったことがある。今では考えられないことだろうが、とても楽しい思い出のひとつとして、はっきりと記憶の中にある。

・社会科見学のひとつとして、和歌山地方裁判所へ行った。自転車泥棒の裁判をまじかに見聞きし、ちょっと驚いたが、良い勉強であったと思う。その時の記事が地方新聞に写真入りで紹介されていたことも思い出した。

・自転車乗りの練習は、今では考えられないような方法でこなした。当時は子供用の自転車などを持っている家庭はほとんどなく、みんな大人用の自転車を使って練習したものである。いわゆる三角乗りと言って、ハンドル部分とサドル、ペダルの三角域の中で体を斜めにしながらペダルをこぐという不安定な乗り方で練習を重ねる。その後、思い切って足がペダルにつかない状態でサドルにまたがり、バランスをとって前進するという危ない乗り方でマスターしたものである。

・近くの丘で秘密基地を作って、みんなで遊んだり、狭い場所での三角ベースでの野球や縁台将棋、缶蹴り、かくれんぼ、城壁登りなど、楽しい思い出がある。

・6年生3学期のある日、担任の先生が突然に「中村君、和歌山大学の付属中学校の試験を受けてみないか?」と言った。市立の学校よりも近くで、通学にはらくちんなこともあり、何の受験勉強もしていなかったが、「ちょっと興味があったので、まあ受けてみようか」という気楽なものであった。
 合格発表の日(筆記試験で男女、それぞれ50名を選び、その後抽選で半分を落として25名ずつの1クラスを新設するという方法)、抽選箱を覗いたときに、1枚だけ何か光っているような紙があったので、すぐにそれを引いた。合格者の番号が張られた紙をまくられたが、私の番号が無い。でもじっと番号を追っていくと、なんと一番最後、右下の隅にあったのである。
 最近、和歌山市に住む幹事たちの努力で、この付属中学校の3クラス150名の同窓会が、毎年11月23日にふるさと紀州で開催されることになっている。できるだけ参加するようにしている。元気なクラスメイトたちに会えることを毎回、楽しみにしている。

次に、中学校時代の頃の思い出、いろいろ

 付属中学校は、1クラス50人(男女25名ずつ)で3クラスしかなかったから、いろいろなことができるという恵まれた環境であり、受験して良かったなと感じていた。

・部活では、写真部、卓球部、バドミントン部などに所属して、大いに楽しんだ。写真部では、フィルムの現像から焼き付けまでをこなすという本格的なもので、暗室での作業もはっきりと記憶に残っている。
 卓球部も楽しかったが、何といっても私たち(10期生)が初めて創設した「バドミントン部」は、思い出深い。何しろ部活をサポートする先生も未経験。見よう見真似の練習に励んだが、市内には対戦する相手がいないという時代であったから、実力のほどは判らずである。
 そこで、大阪市のある中学校にまで遠征して試合をしたことがあるが、何とコテンパンにやられたのであった。悔しい思いを胸に帰ったことは、最大の悪い思い出のひとつとして、いまだに忘れることができない。

・途中で家を引っ越したため、電車通学となった。当時は、市電(路面電車)があったため通学は楽しいことであった。今では、その路線はすっかりバスに置き換わってしまっているが、やはり「市電と城のあるまち」の風景は、のんびりと穏やかで美しくてとても好きだ。
 これまで仕事や旅で日本各地を巡ったが、「電車と城のあるまち」はどこも落ち着いた雰囲気と歴史を感じさせてくれる。

・中学校3年生の時、同じクラスのひとりから、ちょっとした「いじめのようなこと」を経験した思い出がある。どんなことであったかは、記憶にないがH君のことは決して忘れることはない。いつか同窓会で会ったら、そのことを面白おかしく尋ねてみようと思っているのだが、彼は一向に参加する気配がないので、ちょっと残念である。

・この付属中学校には、2クラスの付属小学校があり、中学校で先に述べたように1クラス追加して各学年3クラス(150名、男女半々)となる。確か、中学入試に合格して入学した連中の方が成績は良かったように思う。

そして、高校時代の頃の思い出、いろいろ

・学校が放火にあった。その当時、なぜか学校などの放火事件があちこちで起こっていた。いわゆる連続放火事件である。わが校もある冬の日、放火にあった。教室が焼けたため、体育館を間仕切りしての俄か教室での授業が何か月も続いた。
 私は、目が良かった(左右共1.5)が、照明の暗い室内で過ごしたためか、近眼になってしまった。とんだおまけである。それ以来ずっと眼鏡生活が続いた。

(余談)運転免許の更新で目の検査を受けたが、確か60歳位の時に、老眼のせいで、なんと眼鏡不要の状態に戻ってしまった。そういう人は多くはないが、「いますよ」ということ。今では私の免許証から「眼鏡等」の文字が消えたのである。

・高校入試の思い出。当時は、いわゆる学区制があり、希望する公立高校には行けず、住居地域に振り分けられた学校へ行かなければならなかった。中学時代に引っ越したことで、やむなく(?)S高校を受験することに。
 中学時代の成績からすれば、受験についての心配は全くなかったのであるが、試験の日が近づくにつれて精神的に落ち込んでいったことを覚えている。無事に試験を終えても、もしかしたら合格しないのではないか、といつもの心配症が・・・。
 合格発表の日、緊張の面持ちで出向いたが、見事(?)合格。そして、偶然にもわが家の隣の人がS高校の国語の先生であることを知り、ご挨拶に行った。「最初は、中村君はトップ合格者であったが、最終的には女子がトップになり、君は2番であったよ」と内輪の情報を教えてくれたのである。(450人中2番の成績ということ)
 これはもちろん、実話であるが、なぜそんなに入学試験の合否のことを真剣に悩んだのか、自分自身、今でもまったくわからないのである。要は極端な心配性であることか?

・高校時代は、友達とよくあちこちへ出かけて遊んだり、何よりも映画や読書が好きであった。家では毎日のように父の蔵書でもあった日本文学全集などを片っ端から読みふけった。ただ、スポーツにはあまり興味がなく、学校の体育授業以外には運動部活にも参加したことはなかった。

・小さい頃から好きだった絵の世界には相変わらず興味があり、美術部に所属して楽しんでいた。ところが、その美術作品のことでとんでもない事件が起こり、今でも忘れられないトラウマ状態を経験したのである。
 それは、確か夏休みの宿題だったと記憶しているが、仕上げた作品を提出し、返却されたときに、驚いた。なんとこともあろうに私の絵具で描いた作品「白馬の騎士」の裏側に、先生のコメント「模写のようなことではなく、もっと違った作品を描くように」といったことを赤の太いマジックインクで書かれていた。それが表側の絵の中にくっきりと滲んでいたのである。
 見た瞬間、ショックを通り越していた。どうして口頭で、あるいは鉛筆などで伝えてくれなかったのか?と、思わずK先生の人格を疑ったのである。勿論、すぐに美術部を辞めたのは言うまでもない。

・卒業式に出席していない。これは大したことではないが、大学受験のため上京していたので、残念ながら欠席したというだけである。
 関西の大学を受験することを考えていたのだが、父が「これからは、東京へ出て勉強に励め」と言うひとことが、大袈裟に言うと私の生きざまを変えたという訳である。今となっては、この選択が良かったと感謝している。

 大学時代の思い出もたくさんあるが、このことについては社会人時代と合わせて、いずれまとめて整理したいと考えている。


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